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名古屋地方裁判所 平成3年(行ウ)34号 判決 1996年3月27日

原告

鈴木俊雄

右訴訟代理人弁護士

竹内浩史

水野幹男

被告

名古屋西労働基準監督署長

武田有

右指定代理人

加藤裕

外七名

主文

一  被告が原告に対して平成二年一一月五日付でなした労働者災害補償保険法による休業補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、富士交通株式会社(以下「訴外会社」という。)にタクシー乗務員として勤務していた原告が、昭和六三年五月二六日、勤務を終えて帰宅、就寝した後の明け方に、急性心筋梗塞(以下「本件疾病」という。)を発症したことが、業務に起因するものであるとして、原告が被告に対し、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく休業補償給付の請求をしたのに対し、被告が、原告の右発症は業務上の事由による疾病とは認められないとして、右請求について支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をなしたため、原告が同処分の取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告の経歴

原告は、昭和一四年七月二〇日生まれの男性であり、タクシー乗務員としての職歴が長く、つばめタクシー株式会社(以下「つばめタクシー」という。)及び名鉄交通株式会社(以下「名鉄交通」という。)において勤務した後、昭和六〇年二月一八日からは、訴外会社で勤務してきた。訴外会社は、タクシー、ハイヤーによる旅客交通運輸事業を営む会社であり、名古屋市西区上名古屋三丁目二三番一六号に本社を置いているほか、秩父通、猪子石、小田井にそれぞれ営業所を設けている。原告は、発症当時、小田井営業所(当時の名称は西営業所)に所属していた(以下「小田井営業所」という。)。

2  訴外会社における原告の勤務状況

(一) 訴外会社での勤務には、三人制四勤二休、二人制一勤一休及び一人制六勤一休の三形態があり、原告は、三人の乗務員が二台の営業車に交替で乗務し、四日間連続して勤務した後二日間連続して休むという三人制四勤二休すなわち二車三人制の勤務に就いていた(以下「二車三人制」という。)。右連続勤務の四日間は、同じ営業車に乗務することになるため、原告は、業務を終えて小田井営業所に売上げを納金した後、そのまま同車で帰宅し、翌朝自宅から同車での乗務を開始するのを通例としていた。

(二) 訴外会社においては、就業規則により、基本給、役付手当、精勤手当などの月決め賃金のほかに成果配分方式という一種の歩合制を導入しており、原告の選択していた二車三人制の場合は、一か月四〇万円超の運行収入(以下「運収」という。)等いわゆる足切り基準(以下「足切り」という。)を設け、右基準を超えた場合には、基本給や諸手当のほかに右超過した運収金額に四二パーセントを乗じた歩合給その他の諸手当が、給与規定に従い支給されることになっていた。逆に、仮に足切りに達しない場合には、歩合給は支給されず、最低保障額として運収の四〇パーセントが支給されるが、基本給、当直手当、家族手当などが支給されないこととなっていた。

(三) 原告が本件疾病を発症する前日である昭和六三年五月二五日は、四日間連続勤務の三日目であったが、その勤務内容は通常どおりであった。

3  本件疾病の発症等

原告は、昭和六三年五月二六日午前五時ころ、自宅において就寝中に胸に激痛を感じ、救急車で名古屋第一赤十字病院(以下「赤十字病院」という。)に搬送され、同病院において急性心筋梗塞と診断された。

原告は、当時、糖尿病(以下「本件基礎疾患」という。)に罹患していた。

4  被告の本件処分等

原告は、昭和六三年一二月二八日、本件疾病は業務上の事由によるものであるとして、被告に対し休業補償給付の支給を請求したが、被告は、平成二年一一月五日付で、「本件疾病は労働基準法施行規則三五条別表第一の二に該当する疾病とは認められない」ことを理由に本件処分をなした。

原告はこれを不服とし、平成二年一一月一九日付で愛知労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をなした。

二  本件の争点

本件疾病が業務上の事由によるものであるか否か、すなわち、原告が従事していた業務と本件疾病との間の因果関係の有無である。

三  争点に関する当事者の主張

(原告の主張)

1 業務起因性の認定基準について

(一) 労災保険法に基づく保険給付は、労働の場においては不可避的に労働災害が発生するという現実に着目して、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公平な保護をすること等を目的としてされるものであり(労災保険法一条)、労働者が失った賃金等請求権を損害として、これを補填すること自体を目的とする損害賠償とは、制度の趣旨、目的を異にするものである。

(二) 右のような労災保険制度の趣旨に照らせば、労働基準法(以下「労基法」という。)七五条及び労基法施行規則(以下「規則」という。)三五条にいう「業務上」とは、業務と疾病との間に合理的関連性があることをいい、当該業務に従事したために基礎疾患を悪化させ発症したことが推定されれば足りると解するべきである。

仮に、発症と業務との間に相当因果関係が存在することが必要であると解しても、労災保険法の目的が労働者の損害の填補という一面を有しながらも、あくまでも労働者の保護、救済に主眼があり、その生活保障に重点が置かれていることからすれば、相当因果関係の解釈は、損害賠償制度におけるそれよりも遥かに緩やかなもので足りると解するべきである。

(三) これに対し、被告の主張する認定基準は、相当因果関係という言葉を用いるものの、事実上立証不可能な超相当因果関係論と呼ぶにふさわしい厳格な因果関係とその立証を求めるもので、不当というべきである。

また、被告は右認定基準に沿って、業務起因性が認められるためには、発症前に業務による明らかな過重負荷を受けたことが必要であるとして、「日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと」を要件とし、「特に過重な業務」とは、「当該労働者の日常業務と比較して、特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務でなければならない」とするが、「日常業務」それ自体が血管病変等(労働者本人の素因又は基礎となる動脈硬化等による血管病変や動脈瘤等の基礎的病態、以下同じ。)の増悪をもたらす過重労働であり、この過重労働によって脳・心臓疾患が発症又は増悪したことが明白である場合も「業務外」ということになり、極めて不当である。この点、労働省は、平成七年二月一日付で右認定基準を一部改め、業務の過重性を評価するに当たって、新たに年齢、経験等を考慮することにしたほか、発症前一週間より以前の業務の評価についても一定の場合は考慮することとしたものの、慢性的な蓄積疲労については何ら触れていないなど、その基本的な考え方は依然変わっておらず、なお首肯できるものではない。

2 本件疾病の業務起因性について

(一) 原告の業務の過重性

原告は、次に述べるように過酷な労働に従事していたものである。

(1) 長時間労働

① 原告の、昭和六三年三月三一日から発症の前日である同年五月二五日までの約八週間につき、二週間ごとの拘束時間及び一勤務平均の拘束時間を算定すれば、次のとおりとなる。

期間 拘束時間総計 一勤務平均

五月一二日〜同月二五日

一八一時間三五分 一八時間〇九分

四月二八日〜五月一一日

一五九時間一五分 一七時間四一分

四月一四日〜四月二七日

一六〇時間二〇分 一七時間四八分

三月三一日〜四月一三日

一八三時間四〇分 一八時間二二分

右から休憩時間を差し引き、労働時間を計算すると、次のとおりとなる。

期間 労働時間総計 一勤務平均

五月一二日〜同月二五日

一七〇時間二〇分 一七時間〇二分

四月二八日〜五月一一日

一四九時間二〇分 一六時間三五分

四月一四日〜四月二七日

一五〇時間二五分 一六時間四二分

三月三一日〜四月一三日

一七二時間三〇分 一七時間一五分

② 右の計算結果によれば、発症直前の二週間をみると、一勤務平均の拘束時間は一八時間を超えている。

なお、被告はこれに対し、原告の労働時間の算出に当たり、連続勤務の二日目、三日目及び四日目については通勤所要時間三〇分を差し引くべきである旨主張するが、このような算出方法は、原告の労働実態を正しく捉えていないものであり、不当である。

③ 右にみた原告の労働実態を、労働省の策定した改善基準と比較すると、訴外会社における改善基準違反の頻度、程度ともに著しいものがある。平成元年には右改善基準は改定されており、この新基準によれば、訴外会社の違反程度は一層顕著というべきである。

(2) 深夜労働と休息期間

原告が従事していた二車三人制の特徴は、総拘束時間が長くなるのはもちろんのこと、勤務の終了から翌日の勤務開始までの時間が極めて短くなることである。

原告の発症前八週間の連続する二八回の勤務について、勤務終了から翌日の勤務開始までの時間をみると、最短五時間から最長八時間一〇分であり、平均は六時間一〇分である。休息時間すべてを睡眠に充ててもその不足は避けられない上、着替え、洗顔、入浴等生活に最低限必要な時間を差し引くと、睡眠時間は平均で五時間を切るという状態であった。

(3) 訴外会社におけるノルマ制度

訴外会社では、一日の売上げ目標として「防衛ライン」を決め、走行距離が二五〇キロメートルを下回るか、右防衛ラインの目標金額を達成できないときは、終業時に納金を受け付けてもらえず翌朝回しになり、「専務教育」と呼ばれる特別の教育訓示を受けることとなっていた。また、右防衛ラインとは別に、この金額を上回る勤務目標を設定して従業員を督励し、さらに、各営業所においては、右目標金額とは別に当日の目標額を運転日報に赤いスタンプで押印し、従業員を督励していた。

原告は、几帳面で仕事熱心なタイプであり、日常的にノルマを強く意識して売上げの向上に努力し、焦りながら深夜まで長時間働いた結果、本件疾病を発症したものである。

(二) 原告の本件基礎疾患

(1) 原告は、昭和五四年一〇月から、赤十字病院において糖尿病の治療を受け、昭和六〇年五月の健康診断から毎年尿糖陽性を認められている。しかし、その程度は、健常者と変わらない状態になるまでコントロールされていたものであり、糖尿病の合併症である網膜症、腎症、神経症などの所見も見られない。

(2) 糖尿病の増悪因子として、肥満、コレステロール、中性脂肪、ストレスが指摘され、特に労働に関連する要因として、ストレスに加えて、過労や睡眠不足、深夜勤務や休日勤務などが知られている。また、これらは、同時に、動脈硬化を進行させたり、血栓形成を促進する要因でもある。

原告には、肥満やコレステロールの増加は見られず、仮に、原告の本件基礎疾患が重いものであったとしても、超長時間労働、深夜勤務、過労、ストレス等がこれを増悪させ、本件疾病の発症に大きな役割を果たしたというべきである。

(三) 以上によれば、原告の従事していた過酷な労働による過重負荷こそが、疲労を蓄積させて過労状態を作り出し、動脈硬化、血栓形成を促進し、本件疾病を発症させたものであり、また、本件基礎疾患である糖尿病があったにしても、右過重負荷がこれを急激に増悪させて、右の結果を招来したものと考えるのが合理的であり、本件疾病には業務起因性が認められるというべきである。

3 結論

よって、本件疾病は業務上の事由によるものというべきであり、被告のなした本件処分は違法であるから、取り消されるべきである。

(被告の主張)

1 業務起因性の認定基準について

(一) 労災補償の性格と相当因果関係

労災保険法は、労基法上認められる業務上の災害が発生した際の使用者の補償負担緩和を図り、労働者に対する迅速かつ公平な保護を確保するために制定され、労基法に定める使用者の補償責任につき責任保険的な機能を果たすものである。そして、労基法が使用者に対し、無過失かつ画一的な法定補償責任を課し、その履行を罰則をもって強制していることに鑑みれば、業務上の疾病に関しては、労働者の罹患した疾病が業務に起因することが明確なものでなければならない。

このことに照らせば、労災保険法にいう「業務上の事由」に基づく疾病等といえるためには、業務と疾病等との間に条件関係(事実的因果関係)があることを前提としつつ、更に相当因果関係が存在することが必要であり、業務が他の危険因子とともに原因となっている場合には、業務が他の原因に比べて相対的に有力な原因であると認められることが必要と解するべきである。

(二) 虚血性心疾患等の認定基準

(1) ところで、業務上の事由による疾病については、労基法七五条二項に基づいて規定された規則三五条別表第一の二各号において、具体的にその範囲が定められているところ、本件疾病のような虚血性心疾患等が業務上の疾病と認められるためには、同別表第一の二第九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当する場合でなければならない。

しかし、負傷に起因しない虚血性心疾患等については、現代の医学的知見によれば、特定の業務との相当因果関係を認められておらず、他方、その基礎となる血管病変等は、加齢や一般生活における諸種の要因によって増悪し、発症に至るものが大半であるとされている。したがって、一般的に業務の中に虚血性心疾患等に対する有害因子・危険が存することはまれであり、例外的に当該業務が急激な血圧変動や血管狭窄、血管閉塞等を起こし得るものと認められる場合に、血管病変等をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得るという意味での有害因子・危険を認め得るにとどまるのである。

かかる医学的知見を踏まえ、労働省労働基準局では、昭和六二年一〇月二六日から、労働省労働基準局長通達基発第六二〇号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(以下「新認定基準」という。)に則り、同基準に該当する疾患を右「その他業務に起因することの明らかな疾病」として取り扱っている。なお、平成七年二月一日、労働省労働基準局長通達基発第三八号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(以下「現認定基準」という。)が制定されたが、後に指摘する点を除き、基本的に新認定基準と同様の取り扱いを定めている。

(2) 新認定基準は、労働生理衛生学の成果をも含めた最高水準の医学的知見に基づくものであり、右「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当するか否かの最も合理的な判断基準というべきであるし、これは、同時に、業務と疾病発症との間の因果関係に関する医学経験則を示すものであるから、これらの基準に該当しないような業務態様である場合には、医学経験則上、業務と発症した疾病との間の因果関係自体が否定されると解すべきである。

(3)① 新認定基準は、前記「その他業務に起因することの明らかな疾病」について次のように規定している。

Ⅰ 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること。

イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)に遭遇したこと。

ロ 日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと。

Ⅱ 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が、医学上妥当なものであること。

② 新認定基準の解説によれば、同基準について、次のとおり説明している。すなわち、右「過重負荷」とは、血管病変等をその自然的経過を超えて著しく増悪させ得ることが医学経験則上認められる負荷をいい、この自然的経過とは、加齢、一般生活等において生体が受ける通常の要因による血管病変等の経過をいうとされ、また、右「異常な出来事」とは、a 極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な事態、b 緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常な事態、c 急激で著しい作業環境の変化とされている。

したがって、新認定基準にいう「過重負荷」という概念は、発症した疾病との因果関係を判断する対象となる業務が、基礎疾患等をその自然的経過を超えて著しく増悪させたと医学経験則上認められる負荷でなければならず、新認定基準にいう「日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと」がこれに当たる。この「日常業務」とは、当該労働者の勤務時間及び職務内容であり、一般的には、所定の勤務時間及び所定の業務内容を指す。

③ さらに、新認定基準に別添された「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定マニュアル」(以下「マニュアル」という。)には、前記①Ⅰロの要件について、次のとおり、具体的基準が示されている。

すなわち、右Ⅰロの「特に過重な業務」とは、当該労働者の通常の所定業務と比較して特に過重な精神的、身体的負荷と客観的に認められる業務であり、客観的とは、医学的に血管病変等の急激で著しい増悪の要因と認められることをいうものであるので、当該労働者のみならず、同僚労働者又は同種労働者にとっても、特に過重な精神的、身体的負荷と判断されるものであるとされている。

④ また、新認定基準の解説では、発症と業務との関連についての判断は次によることとされている。

ア 発症に最も密接な関連を有する業務は、発症直前から前日までの間の業務であるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かをまず第一に判断すること。

イ 発症直前から前日までの間の業務が特に過重であると認められない場合であっても、発症前一週間以内に過重な業務が継続している場合には急激で著しい増悪に関連があると考えられるので、この間の業務が特に過重であると認められるか否かを判断すること。

ウ 発症前一週間より前の業務については、急激で著しい増悪に関連したとは判断し難く、発症前一週間以内における業務の過重性の評価に当たって、その付加的要因として考慮するにとどめること(この点につき、現認定基準では、「発症前一週間より前の業務については、この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断し難いが、発症前一週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症前一週間より前の業務を含めて総合的に判断すること。」とされているが、医学的には、発症前一週間より以前の業務については、原則としてその発症に影響があるとはたやすくは認められ難く、現認定基準も、医学的経験則上、発症前一週間程度をみれば、評価する期間としては十分であることを前提としつつ、右一週間を「限定的に区分するものではない」とするにとどまっている。)。

エ 過重性の評価に当たっては業務量のみならず、業務内容、作業環境等を総合して判断すること。

2 本件疾病の業務起因性について

(一) 原告の業務について

(1)① 発症前日の勤務

拘束時間は一八時間一五分、走行キロ数(実車、空車を問わず、一日に走行した距離、以下同じ。)は二七〇キロメートル、営業走行キロ数(乗客を乗車させた状態で一日に走行した距離、以下同じ。)は一二九キロメートル、全ハンドル時間(拘束時間のうち、エンジンをかけて客待ちしている間あるいは信号待ちで停止している間等を含め、エンジンがかかっている状態の延べ時間、以下同じ。)は一一時間二八分、ハンドル時間(拘束時間中、乗客を乗せて走行していた時間、以下同じ。)は五時間五九分、運収実績額は三万五一三〇円であり、交通事故等、異常な出来事に遭遇したこともなかった。

② 発症前一週間の勤務

一日当たりの平均拘束時間は一七時間五四分、同走行キロ数は二九二キロメートル、同営業走行キロ数は一〇八キロメートル、同全ハンドル時間は一二時間一〇分、同ハンドル時間は五時間二五分、同運収実績額は三万〇四八二円であり、やはり、異常な出来事に遭遇したこともなかった。

③ 発症前約三か月間の勤務

一日当たりの平均拘束時間は一七時間三〇分、同平均走行キロ数は二七八キロメートル、同平均売上金額は三万〇五七七円であり、やはり、異常な出来事に遭遇したこともなかった。

(2) 右の勤務状況は、原告の日常業務の範囲内であったこと、原告と同一グループの同僚労働者と比較すると、一日当たりの平均走行キロ数及び全ハンドル時間が比較的長くなっているが、これはタクシーを通勤に使用していたこと(時間にして約三〇分、距離にして約一〇キロメートル。)と、無線に応じずいわゆる「流し」(信号待ち等以外は常に走行し、沿道等でタクシーを待つ客を乗せる方法、以下同じ。)のみをしていたことによるものと思われること、逆に一日当たりの売上額などは、他の同僚労働者とほぼ同水準であり、原告の業務が他の同僚労働者に比べて特に過重であったとは認められないこと、右の間、原告が業務に関連する異常な出来事に遭遇した事実は認められないこと、原告は、タクシー乗務員として経験豊富であり、二車三人制の勤務形態にも慣れていたこと、拘束時間は長時間であるが、昼間の比較的暇な時間帯に十分な休憩を確保していたこと、四日間連続勤務後に二日間の休日を取っていたこと、売上げ及び走行キロ数の目標については、制裁がないことからノルマとはいえず、その達成のために長時間労働を強いられたとはいえないこと、発症前日の気象状況については、最高気温17.0度、最低気温15.3度で気候的には過ごしやすい時期であり、心筋梗塞発症の危険因子となるような寒冷、暑熱などの異常はなかったこと等から、原告の業務が、急激な血圧変動や血管収縮を引き起こし、血管病変等をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させるほどに過重であったとは到底認めることはできない。

(二) 原告の健康状態と本件疾病の発症原因

心筋梗塞は、心筋の需要に対する血液供給の不足の程度が高度で、心筋の壊死状態を生じたものをいうが、その危険因子としては、①加齢、②性(男性)、③高血圧、④高脂血症、⑤喫煙、⑥肥満、⑦糖尿病などが挙げられる。

ところで、原告には、前記争いのない事実3のとおり、糖尿病の基礎疾患があったものであるが、その治療は、昭和五四年一〇月一八日から発症までの間一〇年近くにわたっており、その間の自然的経過により血管病変等がかなり進行していたと考えられること、仮に糖尿病が良好にコントロールされていたとしても、本件疾病の危険因子であることに変わりはないこと、同じく、加齢、男性であることも血管病変等の進行に寄与していたものと考えられること、原告の発症後の心機能状態等に照らせば、労働等を何もしていない状態であったとしても、一年から二年程度の間には心筋梗塞を発症させる可能性は高かったと考えられることから、本件疾病は、原告の本件基礎疾患による血管病変等が、その他の危険因子と相俟って自然的経過により増悪して発症したものと認めるのが相当である。

(三) 以上によれば、原告の業務と本件疾病の発症との間に相当因果関係は認められず、業務起因性は存しないというべきである。

3 結論

よって、本件疾病は、業務上の事由によるものとは認められないとした本件処分に違法はない。

第三  争点に対する判断

一  業務起因性の判断基準について

1  労基法及び労災保険法による労働者災害補償制度の趣旨は、労働に伴う災害が生じる危険性を有する業務に従事する労働者について、右業務に内在ないし随伴する危険性が発現し、労働災害が生じた場合に、使用者の過失の有無にかかわらず、被災労働者の損害を填補するとともに、被災労働者及びその遺族の生活を保障しようとすることにあるものと解される。そして、労基法及び労災保険法が、労災補償の要件として、労基法七五条、七九条等において「業務上負傷し、又は疾病にかかった(死亡した)」、労災保険法一条において「業務上の事由により」と規定するほか、何ら特別の要件を規定していないことからすると、業務と死傷病との間に業務起因性があるというためには、当該業務により通常死傷病等の結果発生の危険性が認められること、すなわち、業務と死傷病との間に相当因果関係の認められることが必要であり、かつ、これをもって足りるものと解するのが相当である(最判昭五一年一一月一二日・集民一一九号一八九頁参照)。そして、この理は、脳血管疾患あるいは本件疾病のような虚血性心疾患等の非災害性の労災に関しても何ら異なるものではない。

したがって、業務と結果発生との間に合理的関連性ないし条件関係があれば足りる旨の原告の主張は採用できない。

2  これに対し、被告は、脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する業務起因性については、規則三五条別表第一の二第九号に定める「その他業務に起因することの明らかな疾病」と認められることが必要であり、また、右「その他業務に起因することの明らかな疾病」の認定に関しては、新認定基準にいう「業務による明らかな過重負荷」等の基準に該当する事実の存在することが必要である旨主張する。

しかし、労基法七五条二項が業務上の疾病の範囲を命令で定めることにした趣旨は、業務上の疾病に関する相当因果関係は傷害の場合ほどに明確でないため、その点を命令で明らかにしようとしたことにあるのであって、これにより相当因果関係の認められる範囲を拡張したり、制限しようとしたものではないというべきである。また、「その他業務に起因することの明らかな疾病」の認定に関する新認定基準についても、それはあくまで下部行政機関に対する運用のための通達であって、行政の適正、迅速処理のための判定基準を示したにすぎないものであるから、相当因果関係の存否の判断を直接拘束するものでないことはいうまでもない。

もっとも、新認定基準は、業務起因性について医学的、専門的知見が集約されたものとして、高度の経験則を示したものと理解することができ、本件疾病のような虚血性心疾患の発症に関する相当因果関係の有無を判断するに当たっては、新認定基準の示すところを考慮する必要性を否定することはできないというべきである。

3  相当因果関係の判断基準について

業務と本件疾病のような虚血性心疾患の発症との間の相当因果関係の有無を判断するに当たり、基礎とされるべき事実と基準については、次のとおり考えるのが相当である。

(一) 前記1で述べた労災補償制度の趣旨から明らかなとおり、業務起因性が認められるためには、業務に内在ないし随伴する危険性が発現したものと認められることが必要であるが、本件疾病のような虚血性心疾患については、もともと被災労働者に、狭窄等の血管病変等が存在し、それが何らかの原因によって閉塞等を起こして発症に至るのが通常であると考えられるところ、血管病変等は、医学上、先天的な奇形等を除けば、加齢や日常生活等における諸種の要因がその主要な原因であると考えられており、血管病変等の直接の原因となるような特有の業務の存在は認められていない。また、血管病変等が増悪して虚血性心疾患が発症することは、血管病変等が存在する場合には常に起こりうる可能性が存するものであり、右虚血性心疾患を発症させる危険が本来的に内在する特有の業務も医学上認められていない。

したがって、こうした虚血性心疾患の発症の相当因果関係を考える場合、まず、当該業務が業務に内在ないし随伴する危険性の発現と認めるに足りる内容を有すること、すなわち、当該業務が過重負荷と認められる態様のものであること(以下「業務過重性」という。)が必要であり、そしてさらに、右のとおり虚血性心疾患の原因としては、加齢や日常生活上の要因等も考えられ、業務そのものを唯一の原因として発症する場合はまれであり、むしろ、複数の原因が競合して発症したと認められる場合が多いことに鑑みると、「相当」因果関係が認められるためには、単に業務が虚血性心疾患の発症の原因となったことが認められるというだけでは足りず、当該業務が加齢その他の原因に比べて相対的に有力な原因と認められることが必要であるというべきである。

(二) ところで、新認定基準は、その附属のマニュアル等により業務過重性の判定基準を示しているところであり、右新認定基準に沿って業務過重性を判断することにも一定の合理性のあることは既に述べたとおりである。

しかし、業務過重性について、右新認定基準が、日常の業務に比して特に過重な肉体的、精神的負荷と客観的に認められる業務でなければならないとした上、客観的とは、「医学的に」「急激で著しい増悪」の要因と認められることをいうものであるから、被災労働者のみならず、「同僚労働者又は同種労働者」にとっても、特に過重な肉体的、精神的負荷と判断されるものでなければならないとしている点は、結果として相当因果関係の判断に特別の要件を付加することになるものであって採用できない。

なぜなら、一般に因果関係の立証は、「自然科学的証明ではなく、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることで足りる」(最判昭五〇年一〇月二四日民集二九巻九号一四一七頁参照)と解されていること、とりわけ、医学的な証明を必要要件とすると、精神的、肉体的負荷の一つとされるストレスや疲労の蓄積といったものが糖尿病等の基礎疾患に及ぼす影響や、基礎疾患と心筋梗塞等の虚血性心疾患の発生機序について、医学的に十分な解明がなされているとは言い難い現状においては、被災労働者側に相当因果関係の立証について過度の負担を強いる虞があり、殆どの場合、業務と虚血性心疾患との間の因果関係が否定される結果になりかねないこと、このような結果は、現在の社会の実情に照らし、労災補償制度の趣旨にも合致しないと考えられるからである。また、右新認定基準等において業務過重性判断の基准とされる「同僚労働者又は同種労働者」についても、当該被災労働者の年齢、具体的健康状態等を捨象して、基礎疾患、健康等に問題のない労働者を想定しているとすれば、それは、多くの労働者がそれぞれ健康上の問題を抱えながら日常の業務に従事しており、しかも、高齢化に伴い、こうした問題を抱える者の比率が高くなるといった社会的現実の存在することが認められることを考慮すると、業務過重性の判断基準を社会通念に反して高度に設定したものといわざるを得ないものであって、同じく採用できない。

(三) しかして、糖尿病等の基礎疾患を有する労働者の業務過重性の判断に当たっては、それが、当該業務に従事することが一般的に許容される程度の疾患等を有する労働者であり、これまで格別の支障もなく同業務に従事してきているといった事情が認められる場合は、当該労働者を基準にして、社会通念に従い、業務が労働者にとって自然的経過を超えて基礎疾患を急激に増悪させる危険を生じさせるに足りる程度の過重負荷と認められるか否かにより判断するのが相当である。

そして、このような過重負荷の存在が認められ、これが原因となって基礎疾患等を増悪させるに至ったことが認められれば、当該被災労働者が、発症の危険性のあることを知りながら、これを秘匿するなどして敢えて業務に従事したなどの特別の事情のない限り、原則として、右過重負荷が自然的経過を超えて基礎疾患を増悪させ死傷病等の結果を招来したこと、すなわち、業務と結果との間に因果関係の存在することが推認されるとともに、基礎疾患が重篤な状況にあったこと、あるいは業務外の肉体的、精神的負荷等が原因となって発症したものであること等につき、特段の反証のない限り(被告が相当程度の立証の負担をすることが労災補償制度の立法趣旨及び公平の理念に合致するものと解する。)、右過重負荷が発症に対し、相対的に有力な原因であると推認し、相当因果関係を肯定することができるものと解するのが相当である。

二  前記争いのない事実、証拠(甲第四号証の一ないし七、第五号証、第六号証、第九ないし第一一号証、第一四ないし第二〇号証、第二六号証、第二八ないし第四〇号証、第四二ないし第四七号証、第五〇号証、第五一号証、第五五号証、第六〇号証、第六八ないし第七一号証、第八九号証の一ないし三、乙第二号証、第四ないし第六号証、第七号証の一及び二、第八号証の一及び二、第九ないし第一二号証、第二四号証、証人服部真及び同中道博明の各証言並びに原告本人尋問の結果。なお、書証の成立(写しについては原本の存在を含む。)については、いずれも当事者間に争いがないか、真正に成立したものと認められる。)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  原告の業務等

(一) 原告の経歴

原告は、昭和一四年七月二〇日生まれの男性であり、昭和五五年一〇月、つばめタクシーに入社し、タクシー乗務員として約三年余り勤め、昭和五九年からは名鉄交通に入社し、やはり、約一年余りの間、タクシー乗務員を勤めた。名鉄交通を退社した後、昭和六〇年二月一八日から、訴外会社のタクシー乗務員として稼働していた。

なお、つばめタクシーと名鉄交通では、一昼夜勤務、すなわち、二四時間乗車勤務した後、二四時間休むという勤務体制に就いていた。

(二) 訴外会社における乗務員の労働条件等

(1) 労働時間等

① 就業規則により、所定労働時間は、原則として一日八時間とし、四週間を平均して一週の労働時間が四八時間を超えることはなく、休憩時間は、勤務時間中分割して三時間以内とされ、業務上必要のあるときは時間外労働をさせることができるとされていた。訴外会社は、労働組合と三六協定を締結し、右時間外労働につき三時間としていた。

したがって、実労働時間八時間、休憩時間三時間、時間外労働三時間の合計一四時間の拘束時間となる。なお、就業規則により、仮眠時間は一勤務につき五時間以内とされていた。

② 訴外会社では、乗務員の勤務時間帯につき、a 午前八時から午後一〇時まで、b 午前九時から午後一一時まで、c 午前一〇時から午前〇時までの三通りに区分され、乗務員はいずれかを選択するものとされており、原告は、aの時間帯を選択していた。ただし、実際には、ある程度、乗務員の裁量に任されていた。

③ 年次有給休暇については、就業規則により、緊急の場合を除き、毎月一五日までに、翌月に請求しようとする休暇を申請しなければならないとされ、この時、休暇取得の対象となるのは、労働組合との協定により、当該請求月の二一日から翌月二〇日までの間とされていた。

(2) 勤務形態

訴外会社には、二車三人制(連続四勤連続二休)、一車二人制(一勤一休)、一車一人制(連続六勤一休)の三形態があり、原告は、入社時から二車三人制を選択していた。なお、訴外会社では、売上げの多い二車三人制を乗務員に薦めていたため、八ないし九割の乗務員がこの勤務形態を選択していた。

なお、二車三人制は、一台の営業車を一人の乗務員が四日間独占する形になり、出退勤の途中にも客を乗車させることができること、また、便宜であることから、原告を含む殆どの乗務員が、四日間連続勤務の初日は自家用車で営業所まで出勤し、連続勤務期間中は自家用車を営業所に置き、営業車で出勤、帰宅をしていた。また、訴外会社も、このような営業車の持ち帰りを黙認していた。

(3) 賃金体系

① 就業規則により、基本給、役付手当、精勤手当などの月決め賃金のほか、成果配分方式という一種の歩合制を導入し、二車三人制の場合は、一か月四〇万円の運収又は一日二五〇キロメートルの走行キロ数を足切りとし、この基準を超えた場合には、基本給や諸手当のほかに超過した運収額に四二パーセントを乗じた歩合給その他の諸手当が支給されることとなっていた。

一方、足切りに達しない場合には、歩合給は支給されず、最低保障額として運収の四〇パーセントが支給されるものの、無事故手当、当直深夜手当、家族手当、回数手当、サービス手当、残業手当が支給されなかった。基本給が低額であるため、収入を確保するためには歩合給で稼がざるを得ず、乗務員にとって、足切りを達成できるか否かは死活問題となっていた。

② 訴外会社は、足切りのほか、前年度実績額を基準に、一日ごとの運収目標額を設定した営業目標額(以下「勤務目標」という。)を定めていたが、仮に乗務員がこの目標額を達成できない場合でも、規則上は、減俸その他の制裁措置等は定められていなかった。

また、訴外会社は、このほか、足切りと勤務目標との間に位置するものとして、労働組合と協議の上で設定する最低生活防衛ライン(以下「防衛ライン」という。)と称する金額を定め、一日ごとに乗務員の運転日報に赤色のスタンプで記載していたものであるが、一日の走行キロ数二五〇キロメートルの足切り基準あるいは防衛ラインを達成しなかった乗務員は、営業所での納金を受け付けてもらえず、翌朝まで営業所に足止めされ、午前九時ころから専務教育と称する訓示を受けさせられた。このため、防衛ラインを達成できなかった乗務員は、翌日の勤務開始が遅れ、更にこれを達成できなくなるという悪循環に陥ることもあり、多くの乗務員にとって精神的負担となっていたことから、訴外会社は、原告が本件疾病を発症する直前の昭和六三年五月二一日、防衛ラインを廃止した。ただし、その後は、防衛ラインに代わり、勤務目標としての金額が運転日報に同様の方法で記載されている。

なお、原告が発症する直前の五月の運転日報には、一七日三万円、一八日三万円、一九日三万円、二〇日三万五〇〇〇円、二三日三万二〇〇〇円、二四日三万二〇〇〇円、二五日三万二二〇〇円と記載されていた。

(三) 原告の通常の勤務状況等

(1)① 原告は、前記のとおり、入社以来二車三人制勤務に就き、午前八時から午後一〇時までの勤務を選択していたものであるが、四日間連続勤務の間は営業車で出退勤をし、これを独占していたことから、少しでも運収をあげ、あるいは走行キロ数を増やすため(運収があがらない場合は、走行キロ数で足切りを達成するほかなかった。)、毎朝午前七時ころ、早いときには同六時ころ自宅を出発していた。

なお、原告は、右のように、朝自宅を出発した時点から客を拾えるようにしていたことから、運転日報には、自宅を出発した時刻を始業時刻として記入していた。自宅から小田井営業所までは、自動車で約三〇分、距離にして約一〇キロメートルであった。

② 一日のうち、a 午前七時ころから同九時ころまで、b 午後四時三〇分ころから同七時三〇分ころまで、c 午後一〇時三〇分ころから午前〇時ころまでの各時間帯が繁忙期となっていた。

aの時間帯は、会社への通勤、出張にタクシーを利用する会社員を、JR名古屋駅(以下「駅」という。)や名古屋空港に運んでいた。この後、昼間にかかると概して客が少なく、暇ができることから、可能な限り休憩を取ることを心掛け、午後〇時三〇分ころから同一時三〇分ころまでの間に昼食時間として三〇分ほど休憩し、それから午後四時三〇分ころまで、栄の中日ビルあるいは三越百貨店等のタクシー乗り場で客待ちをしながら休憩を取っていた。ただし、この間も、客があればもちろん乗車させるため、仮眠はできなかった。bの時間帯になると、会社から繁華街へ出たり、出張から自宅へ帰る客を、駅や名古屋空港に運んでいた。cの時間帯は、繁華街や会社から帰宅する客を乗せていた。

なお、駅西口の新幹線乗り場側にタクシー乗り場があり、ここには、三日に一度の割合で入ることができたものであるが、新幹線利用客が多く、客筋、運収ともよかったことから四日間連続勤務のうち、必ず一日は入るようにしていた。ここでの客待ちは一回三〇分から四〇分ほどであり、一日の延べ時間にすれば、五時間くらいになった。この間、休憩は取れたが、やはり、客待ちであるため、エンジンはかけたままで、仮眠を取ることもできなかった。

足切りを達成して、午前〇時ころから同二時ころにかけて小田井営業所に戻り、五分ほどで売上げを納金し、その後、二五分ほどかけて営業車の整備、清掃等を行った。夕食は、少しでも帰宅後の時間を睡眠に充てるため、勤務途中で購入した弁当等を、右清掃後、車庫等で済ませていた。

そして、深夜午前一時ころ、遅いときには同二時三〇分ころに帰宅し、入浴等を済ませ、就寝するのは午前三時ころであった。このため、一日当たりの拘束時間は一六、一七時間に達し、入浴等生活に必要な活動に要する時間を除くと、睡眠時間は四、五時間となっていたことから、調子よく稼働できるのは四日間のうち初日のみであり、二日目からは疲労が蓄積していった。

(2) 訴外会社は乗務員に対し、日頃、訴外会社からの無線による配車に協力するよう要請していたが、乗務員は乗務員なりに、客を拾える場所を見つけ、走行していることから、これに応じて走行場所あるいは時間を拘束されることを嫌い、無線に応じる者は少なかった。原告も、売上げが少ない場合は、走行キロ数で足切りを達成する必要があったこともあって、無線には応じず、流し主体に勤務していた。このため、道路の左側を、タクシー待ちの客に注意して走行することになり、歩行者の飛び出しや、先行車との車間距離、追突の危険等にも神経を使う必要があり、一日に三、四回はひやっとすることがあった。

また、通常、タクシー乗務員は、休憩時間以外にも、公園等で仮眠を取っているものであるが、原告は、少しでも客を拾い、あるいは走行キロ数を増やすため、仮眠を取らず、可能な限り流しを行っていた。

(3) 四日間連続勤務の後は、二日間連続で休日が取れたが、原告は、植木の手入れ等の雑用を手伝う以外は、ごろ寝をしていることが多かった。

また、年次有給休暇については、原告は、月に一回程度は取るよう心掛けてはいたが、訴外会社では、前記(二)(1)③のとおり、毎月一五日までに、二一日から翌月二〇日までの間の年休取得日を決めて申請するよう定められていた上、三人一組で一台の営業車を使い廻し、勤務予定がきちんと組まれる二車三人制勤務に就いていたため、年休を取得しにくい状況にあった。別紙1及び2によれば、原告は、発症前約八週間で、年休は一度も取得していない。

(4) なお、原告は、タクシー乗務員は、勤務時間や内容に比較して報酬が少なく、割に合わない仕事と思っていた。実際、名鉄交通を退職した後、他の職業に就こうと考えていたが、訴外会社の勧誘により入社したものであり、訴外会社に勤務中も、何度か退職しようとしたが、その度に慰留され、発症までタクシー運転労働に従事していた。

(四) 発症前の原告の勤務状況

(1) 発症前約七週間の勤務状況

原告のこの間の勤務状況は、別紙1のとおりである(なお、自宅を営業車で出発した時刻を始業時間とし、自宅から小田井営業所までの走行距離も走行キロ数に含めた。)。この間、交通事故等、特段異常な出来事には遭遇しなかった。

(2) 発症前一週間の勤務状況

原告のこの間の勤務状況は、別紙2のとおりである(自宅を営業車で出発した時刻を始業時間とし、自宅から小田井営業所までの走行距離も走行キロ数に含めているのは右(1)と同様である。)。この間、やはり、異常な出来事には遭遇していない。

(五) 発症前日から当日にかけての勤務状況と発症時の状況等

(1) 発症前日の昭和六三年五月二五日は、四日間連続勤務の三日目であった。始業時間が午前七時四五分、終業時間が午前二時で、拘束時間一八時間一五分、休憩時間一時間〇五分、労働時間一七時間一〇分であり、走行キロ数二七〇キロメートル、営業走行キロ数一二九キロメートル、売上金額三万五一三〇円、全ハンドル時間数一一時間二八分、ハンドル時間数五時間五九分、取扱件数三一件で、乗車人数は四八人であった。

(2) 原告は、午前七時四五分ころ、営業車で自宅を出発した。この日は、駅西口新幹線乗り場側のタクシー乗り場に入ることができ、ここで八件、延べ一三人の客を乗せた。午後八時二五分ころ、星が丘で客を降ろした後、最後に駅西口に入り、繁華街へ流しに行こうと考え、同四五分ころ、駅西口に入りかかったところで左胸部に痛みを感じ、一旦車輌を停止させた。この時は、胸焼けくらいに思い、持参していた水筒から冷たいお茶を飲んだところ、痛みが治まったため、駅で弁当を買い、食事を済ませた。その後も、大事とは思わず、また、二五〇キロメートルの足切り及び運転日報に記載された勤務目標ともに達成していなかったことから、更に勤務を続け、一〇件、二一人の客を乗せた。

そして、午前二時ころ、小田井営業所で納金等を済ませ、同二時三〇分前後に帰宅した。

(3) 帰宅後、入浴し、一休みした後の午前三時三〇分ころ、就寝した。ところが、午前五時ころ、先ほどの痛みよりも激しい胸痛で目を覚まし、冷蔵庫の冷たい牛乳を飲もうと立ち上がったところで倒れ、横で寝ていた妻を起こして救急車を呼ぶよう頼んだ後、再び倒れ込んだ。その後、救急車で、赤十字病院に搬送、収容され、急性心筋梗塞と診断され、そのまま入院し治療を受け、昭和六三年七月一九日、退院した。

現在は、愛知県から、身体障害者一級に認定されている。

2  原告の健康状態、嗜好等

(一) 原告は、昭和五四年ころ、口が乾く、疲れやすい等の自覚症状を覚え、肥満を心配した知人の勧めもあり、同年一〇月一八日、赤十字病院で検査を受け、糖尿病及び糖尿病性神経症(糖尿病性神経障害ともいう。)と診断された。医師には、「糖尿病の兆候が出ている。」、「食餌療法を続けて様子を見る。」とのみ告げられ、食事を一日一四〇〇ないし一五〇〇キロカロリーに抑え、経口血糖降下剤オイグルコンを一日半錠服用するよう指示された。以後約一〇年にわたって、右食餌療法とオイグルコンの服用を続け、赤十字病院で月一回の定期診断を受けていた。

なお、タクシー運転労働に従事していることについて、医師から転職するよう勧告されたり、特に注意を受ける等したことはなかった。

(二) 原告の訴外会社等における健康診断の結果

(1) 名鉄交通での健康診断では、尿糖につき、昭和五八年一〇月一四日(入社時)に−(マイナス、以下同じ。)、同五九年五月一〇日に3+(プラス、以下同じ。)、同年一〇月二五日に−と診断された。

(2) 訴外会社における定期健康診断の結果は次のとおりである。

昭和六〇年五月一一日

血圧 一二〇/八〇mmHg

尿糖 2+

昭和六一年五月一〇日

血圧 一二六/七八mmHg

尿糖 2+

昭和六一年一〇月八日

血圧 一二〇/八〇mmHg、血圧治療中

尿糖 3+

昭和六二年一〇月二六日

血圧 一二八/七八mmHg

尿糖 2+

昭和六三年五月一九日

血圧 一四〇/八〇mmHg

尿糖 2+

(3) 発症後の赤十字病院における検査によれば、血糖一一七、HbAl(約一か月間の血糖の変動を反映する検査で、糖尿病に対するコントロール状態の指標となるもの。)が7.4パーセントであった。

なお、眼底検査により、極めて軽度の動脈硬化(シャイエの分類Ⅰ)がみられた。

(三) 原告は、昭和五四年当時六八キログラムあった体重が、発症時には、五七キログラムになっていた。また、オイグルコンは、通常の糖尿病患者であれば一錠ないし三錠を服用すべきところ、原告は、半錠で済んでいたものであり、インシュリンの投与を受けたこともなく、毎年四月及び六月には、赤十字病院で眼底検査を受けていたが、糖尿病性の所見があるという指摘を受けたことはない。血圧についても、これまでに降圧剤等を服用するよう医師から指示されたことはない。

なお、右にみたように、原告の発症時のHbAlの数値は7.4パーセントであったところ、通常、健常者の平均が七パーセント、コントロールの良好な糖尿病患者で約九パーセントであり、原告の右数値はこれを大幅に下回っている。

また、糖尿病性神経症が発症すると、知覚神経が侵され、神経痛やしびれのような異常感覚を起こすとされているが、原告には、時々足が冷たく感じるといった自覚症状があったのみで、糖尿病性神経症としては極めて軽微なものであった。

(四) 原告には喫煙の習慣はない。飲酒習慣もないに等しく、発症当時には、月に一度、ビールをコップに一杯半ほどたしなむ程度であったが、甘い物を好んだ。

3  心筋梗塞と糖尿病の病像、危険因子等

(一) 心筋梗塞について

(1) いわゆる虚血性心疾患とは、心筋を取り巻く冠動脈の血流阻害により、心筋への血液の循環が阻害され、その供給が不足することによって起こる疾患であり、このうち、心筋梗塞はこの不足の程度が著しく、心筋の壊死を来すものであり、心筋虚血が不可逆的である点で、心筋の壊死にまで至らず、心筋虚血が可逆的で一時的な狭心症と区別される。その典型的な症状は、胸痛、呼吸困難、胃腸症状(嘔気、嘔吐)、ショック(冷汗、意識障害)などであり、発症の時期は、労作とは関係のない夜の安静時や就寝中などの方が多い。

(2) 冠動脈の血流阻害は、その狭窄又は閉塞によって生じるが、その主な原因はアテローム(粥状)性動脈硬化であるとされる。これは、血管の三層の膜のうち、内膜から中膜にかけての組織に脂肪変性が起こり、さらに内膜に繊維の増殖が付加され、その結果、血管内腔側が膨れ上がる変化であり、これによる冠動脈内腔の狭窄が進むと、心筋の要求する血液を供給し得なくなることにより心筋の変性、壊死に至り、心筋梗塞を発症するとされる。ただし、心筋梗塞は、アテローム性動脈硬化のみによる場合のほか、動脈硬化が生じている箇所に発生する血栓や血管攣縮によって促進され、発症することがある。

(3) 心筋梗塞の危険因子としては、①加齢、②性(男性であること)、③高血圧、④高脂血症、⑤喫煙、⑥肥満、⑦糖尿病、⑧ストレスなどが挙げられる。

(二) 糖尿病について

(1) 糖尿病の疾病概念はいまだ明解にされておらず、発症様式も区々であるが、血糖をコントロールするインシュリンの欠乏、あるいはその作用を阻害する諸因子の過剰又は作用の発現機構の異常によるインシュリン効果の不足が共通にみられる特質である。遺伝子的素因に感染、肥満、運動不足などの環境因子も加わって誘発される。血管拡張、血流増加を招き、長期に及ぶと内皮細胞変性から細小血管障害を生じ、網膜症、腎症、神経障害などを引き起こし、動脈硬化も促進するとされる。

(2) 糖尿病を悪化させる要因としては、ストレス、過労や睡眠不足等が挙げられる。これらの要因はいずれも、交感神経やホルモンを刺激して血糖を増加させるとともに、インシュリンの働きを阻害する。

(3) 治療法としては、食事制限による過食と肥満の是正、運動による糖消費の促進、インシュリン作用の増強を基本とし、必要に応じてインシュリン又は経口血糖降下剤を加えるのが効果的とされる。

(三) ストレスないし疲労の蓄積について

(1) 右にみたように、心筋梗塞あるいは糖尿病の増悪要因として、ストレスや過労が一般に挙げられているところである。

(2) もっとも、ストレスないし疲労の発生要因は種々であって、業務のみではないこと、ストレスないし疲労の発生、その受容の程度及び身体に与える影響についても個体差が存し、現在の医学水準ではストレスないし疲労の蓄積といったものを客観的・定量的に把握できないことも確かであり、このことから、ストレスないし疲労の蓄積と糖尿病の増悪や心筋梗塞の発症との間の因果関係を医学的に肯定することはできないとの見方も存する。

しかし、法的因果関係は必ずしも厳密に医学的な証明を要するものではなく、ましてストレスないし疲労の蓄積が定量的に把握できなければ因果関係を肯定することができないといった性質のものではないというべきであり、むしろ、右因果関係についても、通常人の目から見て日常の業務により受ける程度を超えたストレスないし疲労の蓄積が認められ、これが糖尿病の増悪や心筋梗塞の発症を招いたものと判断され、また、医学的にも、厳密にその機序、程度を証明することまではできないにしても、そのような作用のあることが矛盾なく説明された場合には、因果関係を推認して妨げないものと解される。

4  本件疾病と業務起因性についての医師の所見

(一) 原告を糖尿病と診断した長谷川晴彦医師の意見

(1) 原告の診断病名である糖尿病性神経症とは、糖尿病による代謝障害及び細小血管症により、知覚、運動、自律神経に障害が生じるものをいう。その明確な発症メカニズムは未だ不明である。

(2) 糖尿病性神経症よりもむしろ、糖尿病を有する者が、健常者よりも心筋梗塞の発症率は高いといえる。糖尿病を有すると、動脈硬化の進展が健常者よりも一般的に早く、これが心筋梗塞発症の一因でもあると考えられているが、詳細については今後の研究課題であると思われる。

(二) 原告の主治医である岩田敬和医師(以下「岩田医師」という。)の意見

(1) 原告に対し、平成元年四月一一日実施した心カテーテル冠動脈造影検査等の結果によれば、右冠動脈の#1及び#2が九〇パーセント、左冠動脈回旋枝の#13が九九パーセントの狭窄率を示した。昭和六三年七月一二日の検査によれば、#1は七五パーセント、#2及び#13は五〇パーセントの狭窄率であったことから、一年足らずで狭窄が著しく進行したといえる。

(2) 原告は、発症後、タクシー運転業務から離れ、また、発症を契機にその後の健康管理には十分に気を配っていたはずであるにもかかわらず、右にみたように急激に冠動脈の狭窄が進行したことからすれば、原告はもはや動脈硬化が進行しやすい体質になっていたと判断するのが自然であり、原告が労働等していなかったとしても、発症時から一年ないし二年の間には、心筋梗塞を発症する可能性は高かったと考えられる。

(3) 糖尿病は、仮に良好にコントロールされていたとしても、長い時の経過により、当然に動脈硬化の危険因子となりうるものであり、原告の発症の原因としては、糖尿病と加齢である可能性が高いと考える。

(三) 愛知労働基準局地方労災医員服部健蔵医師(以下「服部健蔵医師」という。)の意見

原告の心臓の左冠動脈には、左前下行枝の起始部で九〇ないし一〇〇パーセント、右冠動脈には、起始部近辺で七五ないし九〇パーセントの基質的狭窄があることが入院後の冠動脈造影検査で判明しており、このことに照らせば、発症の主因は長期の糖尿病による冠動脈の動脈硬化にあったというべきである。これに加えて、原告自身の健康管理が怠慢であったこと、拘束時間が労使協定による時間を超えていたことが複合して発症したものと考えられ、業務との相当因果関係のみを推定するのは困難である。

(四) 石川勤労者医療協会城北病院診療部長服部真医師(以下「服部真医師」という。)の意見

(1) 本件疾病の発症機序

原告は、発症前日の午後八時四五分ころ、胸痛を覚えているが、これは心筋梗塞の前駆症状としての安静時狭心症であったと思われる。ところで、この安静時狭心症の後に心筋梗塞を発症することはよくみられることであり、攣縮により動脈硬化を起こしていた血管の内膜に傷がつき、そこに血栓が形成され、更に狭窄が強まったところに、再び攣縮が生じて心筋梗塞が発症するという機序が考えられている。

原告の本件疾病も、動脈硬化の上に冠動脈の攣縮や血栓が加わって発症した心筋梗塞と考えられる。

(2) 本件疾病の発症原因

① 深夜を含むタクシー運転の有害性

タクシー運転手は、虚血性心疾患の代表的な多発職種であるが、その原因としては、a タクシー運転を始めた後に、肥満になり、喫煙本数が増加する傾向があるところ、肥満の影響により悪玉コレステロールが増加し、喫煙の影響により善玉コレステロールが減少し、これにより、動脈硬化が誘発されること、b 深夜に及ぶタクシー運転においては、夕刻から血圧が上昇し、日中は正常血圧でも深夜には高血圧域になることがあり、高血圧者ではなおさら血圧が上昇すること、c 深夜まで稼働するタクシー運転手には、深夜の運転中に、交感神経と副交感神経の活動が同時に強まるという自律神経のバランスを欠いた状態が生じることが分かっているが、この状態が冠動脈の攣縮を引き起こすことが挙げられる。

② 原告には、肥満、喫煙習慣はなく、血圧も正常であったが、その一方で、深夜の勤務により、高血圧状態となったり、たびたび急激な血圧上昇に見舞われていた可能性があり、これにより動脈硬化が促進されたことも考慮すべきである。また、前記のとおり、本件疾病は冠動脈の攣縮や血栓によって発症したものと考えられるが、これは、深夜勤務により生じた自律神経のアンバランスな状態が引き起こしたものと判断することができる。

また、原告は、発症直前に、長期にわたり、労働省の改善基準を著しく上回る極めて過酷な深夜のタクシー運転労働に従事しており、必然的に生じる睡眠・休養不足も加わって、慢性的な過労状態に陥っていたと考えられる。それが、元来は軽症であった糖尿病のコントロールを乱すとともに、冠動脈の動脈硬化や血栓形成を促進し、冠動脈の狭窄を生じさせたものと思われる。発症前日には、深夜の運転労働という反生理的な労働によって引き起こされた冠動脈攣縮による狭心症を発症し、その後も、深夜二時まで勤務を続けたことによって、再度発生した冠動脈攣縮と血栓形成により本件疾病を発症したと認められる。

(3) 以上によれば、原告の従事していた過重な労働が、最低限必要な休養の阻害、基礎疾患の増悪、動脈硬化の促進、心筋梗塞の引き金となる血栓や冠動脈攣縮の発生等、各段階で本件疾病発症に重要な関与をなしていたと認められることから、本件疾病は業務に起因するものと判断するのが適当である。

三  以上に認定した事実を総合すれば、本件疾病の業務起因性について次のとおり認めることができる。

1  業務過重性について

(一) 労働省の改善基準

(1) 証拠(いずれも成立に争いのない甲第六七号証、第七八号証及び第八六号証)によれば、昭和六三年当時、自動車運転者の労働条件の改善を図り、併せて交通事故の防止に資するため、労働省により、自動車運転者の労働条件の最低基準が定められており(「自動車運転者の労働時間等の改善基準について」、以下「改善基準」という。)、ハイヤー・タクシー業における隔日勤務以外の自動車運転者に関する規定内容は以下のとおりであることが認められる。

① 労働時間(改善基準Ⅲ(1))

所定労働時間は、休憩時間を除き、一日について八時間、一週間について四八時間を超えないものとし、また、変形労働時間制をとる場合には、四週間を平均して一週間の労働時間が四八時間を超えないものとする。

② 拘束時間(改善基準Ⅳ2(1)イ)

始業時刻から始まる一日の拘束時間は、時間外労働を含め一四時間以内とし、この一日の拘束時間は二週間を平均して計算することができるものとする。

③ 最大拘束時間及び休息期間(改善基準Ⅳ2(1)ロ)

始業時刻から始まる一日の最大拘束時間は、時間外労働を含め一六時間とし、勤務と次の勤務との間には連続した八時間以上の休息期間を与えなければならないものとする。

④ 休日労働(改善基準Ⅳ2(1)ニ)

休日労働は、二週間における総拘束時間が一六八時間(一四時間×一二日)を超えない範囲内で行うことができるものとし、その回数は二週間を通じ一回を限度とするものとする。

(2) 改善基準は、右のとおり、ハイヤー・タクシー業に従事する自動車運転者の労働条件について最低基準を定めることによって、労働条件の改善を図り、併せて過労等に基づく交通事故の防止に寄与することを目的としたものであることに照らすと、これを自動車運転者の業務の過重性を判断する際の目安の一つとして考慮することができるものというべきである。

(二) 発症前の勤務による過重負荷

(1) 改善基準の遵守状況

① 前記認定事実によれば、昭和六三年三月三一日から同年五月二五日までの全就労日三八日間における各基準の遵守状況は、以下のとおりであることが認められる。

a 所定労働時間は、休憩時間を除き、一日について八時間を超えないものとする基準に照らすと、全就労日においてこの数値を超えている。また、一週間ごとの労働時間は次のとおりであり、一週間について四八時間を超えないものとする基準に照らしても、全期間においてこの数値を超えている。

三月三一日〜四月六日

八七時間二〇分

四月七日〜四月一三日

八五時間一〇分

四月一四日〜四月二〇日

八二時間二〇分

四月二三日〜四月二六日

六八時間〇五分

四月二九日〜五月二日

六七時間一五分

五月五日〜五月一一日

八二時間〇五分

五月一二日〜五月一八日

八四時間一五分

五月一九日〜五月二五日

八六時間〇〇分

b 二週間を平均した一日の拘束時間は、時間外労働を含め一四時間以内とする基準に照らすと、次のとおり、全期間においてこれに違反している。

三月三一日〜四月一三日

一八時間二二分

四月一四日〜四月二六日

一七時間四八分

四月二九日〜五月一一日

一七時間四一分

五月一二日〜五月二五日

一八時間〇九分

c 一日の最大拘束時間は、時間外労働を含め一六時間とする基準に違反している日数は、合計三三日(八七パーセント)に及び、勤務と次の勤務との間に連続した八時間以上の休息期間を要するとする基準を満たしているのは、四月一七日から同月一八日にかけての一回のみである。

d 二週間における総拘束時間が一六八時間以内とする基準に照らすと、次のとおり、全期間のうちこれを満たしているのは二回である。

三月三一日〜四月一三日

一八三時間四〇分

四月一四日〜四月二六日

一六〇時間二〇分

四月二九日〜五月一一日

一五九時間一五分

五月一二日〜五月二五日

一八一時間三〇分

② なお、前述したとおり、右の原告の拘束時間は、自宅から小田井営業所までの通勤に要する三〇分をも加算したものであるところ、被告は、これに対し、右通勤時間は本来控除すべきである旨主張するが、前記認定事実によれば、原告は、この間も客があれば乗車させる目的もあって営業車を持ち帰っていたこと、訴外会社では、原告のみならず、殆どの同僚乗務員が同様にしていたこと、訴外会社も、運収をあげさせるために営業車の持ち帰りを黙認していたものであり、通勤時間中に乗務員が客を乗車させることも当然予期していたはずであることが認められ、このような実態に照らせば、通勤時間も拘束時間に含めるのが相当というべきである。

(2)① 前記認定事実及び右(1)にみたところによれば、原告は、足切りというノルマおよび防衛ラインないし勤務目標という事実上のノルマに追われ、四日間連続勤務の間は、訴外会社の就業規則の定めはもちろん、改善基準にも大幅に違反する長時間の拘束を受け、また、長時間労働に従事し、発症直前約八週間をみれば、最大拘束時間二一時間二〇分、同労働時間二〇時間一〇分、一日当たり平均拘束時間一八時間、同労働時間一六時間五三分という過酷な労働に従事していたものであり、このため、連続勤務の二日目以降は、慢性的な睡眠・休養不足に陥ったままタクシー運転労働に従事していたことが認められる。また、タクシー乗務員は、交通の安全のため、常に周囲の車両との間隔、歩行者の飛び出し等四囲の状況に注意し、しかも、道路端でタクシーを求める客を見落とさないよう走行しなければならないものであること、乗務員は、狭く閉鎖的な車内に座ったまま右拘束時間の殆どを過ごすことを強いられること等から、タクシー運転労働は、乗務員を身体的、精神的に疲労させ、その精神的緊張を高めるものであると解されるところ、原告は、かかる労働に右のような長時間にわたって従事していたこと、さらに、右ノルマに追われること自体が心理的ストレスとなり、常に精神的重圧を受けていたことが認められ、原告は、かかる過重な業務に従事したことにより、身体的、精神的疲労を蓄積させ、その後もその疲労を十分に回復させることなく、慢性的、恒常的な過労状態に陥ったまま、発症前日に至ったものと認めることができる。

さらに、前記認定事実によれば、原告の発症前日の勤務も、拘束時間一八時間一五分、労働時間一七時間〇一分(いずれも発症直前約八週間の平均を超えている。)、走行距離二七〇キロメートルに及び、他方、休憩時間は僅か一時間〇七分という過重なものであった上、午後八時四五分ころ、心筋梗塞の前駆症状と推測される胸痛を覚えたにもかかわらず、その時点では、足切りの走行距離及び勤務目標の金額ともに達成できていなかったため、更に約五時間も勤務を続けたものであり、この日の勤務もまた過重な業務であったことが認められる。

そして、これら発症直前の勤務の拘束時間、労働時間等とその勤務内容、原告の健康状態等諸般の事実を総合考慮すると、原告が発症前日まで従事していた業務は、本件基礎疾患を有していた原告にとって、その疾患を自然的経過を超えて急激に増悪させるほどに過重な業務であったと認めることができる。

② なお、前記認定事実によれば、原告は、勤務中、一日当たり五時間程度は客待ちによる休憩を取れたこと、四日間連続勤務の後は、二日間連続休日を取ることができたことが認められる。

しかし、右客待ちの間も当然仮眠を取ることはできず、一回の客待ち時間は三〇、四〇分程度に過ぎなかったのであるから、疲労の蓄積を防ぐほどの休憩が取れていたということはできない。また、別紙1及び2を基に、昭和六三年五月一一日(四日間連続勤務の初日)から発症前日の同月二五日までの間について、合わせて一時間を就寝及び起床の際に生活上必要とされる時間に充て、休日中及びその前後の睡眠時間を八時間と仮定して、原告の睡眠時間を試算すると、右期間の平均睡眠時間は六時間一五分となるものの、他方、四日間連続勤務の間の平均睡眠時間は四時間五七分であり、二日間連続して休日を取ったからといって、わずかこれだけの睡眠時間で、前認定のような過重な業務に従事した後に蓄積した疲労を解消させることができたとは到底考えられない。むしろ、前記認定事実によれば、二車三人制に就いていた原告は年休を取りにくい状態にあり、実際、発症直前約八週間には一度も年休を取っていないことが認められ、糖尿病という本件基礎疾患を有していた原告にとっては、疲労の蓄積を防ぐに足りる休息は全く取れていなかったというべきである。

③ なおまた、被告は、原告の拘束時間、労働時間等の数値を訴外会社の同僚乗務員と比較し、原告の業務は特に過重ではなかったとして、すべてその日常業務の範囲内であった旨主張する。しかし、当裁判所が採用する相当因果関係の判断基準は前記一3(三)のとおりであるところ、前記認定事実によれば、発症直前における原告の本件基礎疾患は、健常者と大差ない程度にまで良好にコントロールされていたことが認められるものの、かかる基礎疾患を有していた原告にとって、その発症直前の業務が、右基礎疾患を有する原告の身体状況を急激に悪化させる危険がある程に過重なものであった以上、同僚乗務員と比較して大差ないとしても、このことをもって業務過重性が認められないということはできない。

さらに、被告は、原告はタクシー乗務員としての経験が豊富であり、二車三人制勤務にも慣れていたこと、訴外会社における防衛ライン及び勤務目標には、規則上制裁措置等がないことから、ノルマとはいえず、その達成のために長時間労働を強いられたとはいえない旨も主張する。しかし、長時間労働ないし深夜労働による疲労の蓄積等が、勤務の慣れによって回復し得るものか、あるいはどの程度回復し得るものかについては、医学上これを明らかにする資料はなく、したがって、慣れにより右のような疲労等が回復されるものとは考えられないところであり、また、訴外会社に、防衛ラインあるいは勤務目標を達成できなかった乗務員に対する規則上の制裁措置等はなかったにしても、事実上、大幅な収入減という多大な不利益を蒙る危険があったことは前認定のとおりであるから、この点の主張も採用することはできない。

2  相当因果関係について

(一)  以上検討したところによれば、原告が発症前日まで従事していた業務による過重負荷が、本件基礎疾患により発生していた冠動脈の血管病変等を、自然的経過を超えて急激に増悪させた結果、本件疾病を発症させたものと推認することができ、本件においては他に特段の事情が認められない以上、原告の業務と本件疾病の発症との間には、相当因果関係が存在するものと認めるのが相当である。

(二)(1)  被告は、これに対し、原告の本件疾病は、その基礎疾患による血管病変等が、その他の危険因子と相俟って自然的経過により増悪して発症したものである旨主張するが、前記認定事実によれば、原告の本件基礎疾患は、健常者と大差ない程度にまでコントロールされていた上、原告には、心筋梗塞あるいは糖尿病の危険因子として、加齢、性(男性であること)、過重な業務によるストレス及び過労以外の要因は見当たらないこと、この点、訴外会社における定期健康診断において、「血圧治療中」と指摘されたことはあるものの、血圧値自体は、訴外会社に在籍していた期間を通じてほぼ正常値を保っており、また、医師から高血圧である旨の診断や治療を受けた形跡はないことが認められ、このことに照らせば、被告の右主張を採用することはできない。

(2)  この点、岩田医師は、本件疾病の発症と原告の業務との間に相当因果関係は認められない旨の意見を表明し、その根拠として、発症後の冠動脈において狭窄が急激に進行していることから、原告は動脈硬化が進行しやすい体質になっていたと考えられることを挙げている。しかし、一旦心筋梗塞を発症したことにより、心臓の機能が低下することは十分あり得るところであり、既に発症してしまった後の冠動脈の状態から、その発症前の状態を推測することが、必ずしも合理的とは解されないこと、むしろ、前記認定事実によれば、発症後の検査でも、動脈硬化の程度はシャイエの分類Ⅰという軽微なものであったことが認められ、これらのことに鑑みれば、本件疾病の発症を契機に心臓の機能が低下し、このため、責任病変となった部位以外の冠動脈にも動脈硬化が発生あるいは進展したとみるのが自然であり、他に、発症前に既に動脈硬化の進展しやすい体質になっていたこと、あるいは、動脈硬化が増悪していたことを示す証拠も見当たらない以上、右意見を採用することもできないというべきである。

なお、服部真医師も、岩田医師の右意見に対し、発症後の心機能状態により原告の体質を判断することは誤りである旨述べているところ(甲第五〇号証及び証人服部真の証言)、被告は、服部真医師の右批判は、岩田医師がその意見の根拠としていない冠動脈バイパス手術に用いた下肢静脈に関する知見をもって、バイパス手術前の冠動脈の狭窄の原因についても併せ論ずるもので失当である旨主張する。しかし、服部真医師の静脈の狭窄に関する指摘は、被告が、愛知労働者災害補償保険審査官に提出した意見書(甲第五一号証)において、バイパス手術のために用いられた血管の狭窄をもって原告の糖尿病による動脈硬化と推定していることに対して反論したに過ぎないものであること、右認定のとおり、心筋梗塞の発症自体により心機能が低下することも十分考えられることからすれば、被告の右主張は、当を得ないものといわざるを得ない。また、被告は、さらに、服部真医師が、原告の糖尿病が良好にコントロールされていたとし、その動脈硬化については糖尿病の影響を考えるべきではないとする一方で、原告が労働に伴う糖尿病の悪化要因を多数有しており、それが、動脈硬化の進展や心筋梗塞の発症に大きな役割を果たしたと思われると述べている点を捉えて、この意見が自己矛盾を来していると批判するが、服部真医師の右意見は、まさに、原告の従事していた労働こそが糖尿病の増悪ないし心筋梗塞の発症を招いたとする見解に他ならず、これに何らの矛盾も存在しないというべきである。

また、被告は、服部健蔵医師の意見をも援用し、原告の業務が、本件疾病の発症に対して相対的に有力な原因となったとはいえない旨主張するが、同意見がその根拠とする原告自身の健康管理の怠慢という事実については、これを認めることができないのは前認定のとおりであること、同意見は、そもそも、原告が長時間の拘束を受けていた事実は認めた上で、「相当因果関係のみを」推定することは困難であるとしているに過ぎないことから、この意見をもってしても、前記(一)の認定を覆すことはできないものである。

(三)  その他、前記(一)の認定を覆すに足りる特段の証拠は何ら見当たらず、本件疾病の発症に業務起因性を認めることができるものというべきである。

第四  結論

以上により、原告の本件疾病の発症には業務起因性が認められるから、これと異なる判断に基づいてなされた本件処分は違法であり、取消しを免れない。

よって、原告の本訴請求は理由があるから認容し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福田皓一 裁判官立石健二 裁判官安藤祥一郎)

別紙<省略>

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